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シュイナード・ジャパン、ブラックダイヤモンド、オスプレー……一期一会の縁が紡いだドラマのようなブランドたちとの出会いをロストアロー代表の坂下直枝さんに聞く(後編)

【前編】では日本でも有数の登山用具輸入代理店であるロストアローの仕掛けた新しい試みについて、【中編】ではロストアローの創設秘話について取り上げてきました。今回の【後編】では、ロストアローがこれまで取り扱ってきたアウトドアブランドとの出会いに秘められたさまざまエピソードについて聞いています。

そこから同時に見えてくるのは、今でこそ質・量ともに世界的規模と成長したものも少なくないロストアローの取り扱いブランドたちが、決して最初からビジネス目的のみで選ばれてきた結果ではなく、ともに自然と山岳文化に対して強い信念と情熱をもった者同士が、偶然や必然によって彩られた深い絆と信頼関係によって築き上げられてきたものだというまぎれもない真実でした。

第3章:シュイナード・イクイップメントの危機とブラックダイヤモンドの誕生

ロストアローは1984年の9月に設立しましたが、ブラックダイヤモンドの誕生は5年後、1989年11月末だったと思います。

その数年前からシュイナード・イクイップメント社は、シリアスな訴訟を抱えていました。ガイドと岩場を登っていた女性がトイレのためにロープをほどき、戻った後ロープをハーネスに結び直します。 登り始めてすぐ滑落、ハーネスが外れて墜落死という事故でした。

彼女の両親は、事故の原因はガイドの指導・注意不足だと同伴のガイドを訴えました。

しかしガイドは無一文。 勝訴しても補償金はもらえないことがわかり、次にガイドが所属するガイド組合を訴えましたが、ガイド組合もやはり財産がないことが分かります。

今度は、製品の使用説明の不備が事故の原因だとして、ハーネスの製造会社シュイナード・イクイップメントを訴えます。 会社の資産を超える多額の補償金請求なので、弁護士の助言もあって、シュイナード・エキップメントは、自ら倒産するという決断に至ります。

補償金支払不能の会社の倒産はやむを得ないとしても、従業員たちの生活をどう守るかという新たな問題が起きます。工場や機械や装置は使用できましたが、新会社の発足には当座の運転資金が必要です。そこで責任者だったピーター・メットカーフ(ブラックダイヤモンドの創業者の一人)は社員、知人、友人、取引先にも広げて新会社の出資者を募りますが、必要な金額には到達せず、私にもピーターから電話がかかってきたのです。「何とか助けてくれないか」と。

私「幾ら必要だ」。ピーター「26万ドルだ」。私「そんな大金があるわけない」。ピーター「2週間で何とかして欲しい。できない時は全員失業し、ブランドも死ぬ」

私は「分かった」と言っていったん電話を切りました。

 

正面突破以外の方策は思いつかず、すぐ銀行の支店長を訪問し、26万ドルの融資のお願いをしました。すると当然ではありますが「まもなく潰れる会社ですね。非常に無謀だと思います。貸すことはできません」との返事。

「これには何十人の生活もかかっているし、私の会社の存亡もかかっている」と訪問ごとに繰り返し説明しました。4回目の日「本当はよくないのですが、私の権限で貸しましょう」と急に承知してくれました。

理由は分かりませんが、不思議な成り行きでした。電話のあった翌週、ピーターに資金を送ることができ、ギリギリのタイミングでブラックダイヤモンド社誕生にこぎつけました。後日このお金を毎月返済していく苦行は数年続くことになりますが、それはまた別の話です。

私の出資金が全体の約10分の1程度だったので、成行きで私もBDの取締役を無報酬で引き受けたのですが、20年も続くとは思いもよらぬことでした。

 

当時海外の主要取引先はスカルパ社、ジプロン社(スキーポール)、トウア・スキー社、ベア―ル社(ロープ)の4社でした。シュイナード社倒産のニュースが欧州に流れ、彼らの判断で取引停止することになれば取り返しがつかないことになると考え、ピーターに各社に連絡をしたかどうか電話で確認すると「ベア―ル社以外にはまだしていない」と。 

「私もすぐ飛行機を予約するから、3日後にミュンヘンで落ち合おう」と、ピーターに伝えます。 そしてまず二人で最初にトウア社を訪問したところ、いきなり「倒産のニュースを聞いたから、既に別の代理店を決めた」と通告されます。

とにかく次に行こうとジプロン社に向かいました。旧知のジュゼッペ・プロンザテイ社長は、グライダーのヨーロッパ選手権のチャンピオンだった人ですが、私達の説明を聞いた後「分かりました。新会社が機能するようになったら連絡くれませんか。それまでは待ちますよ」と言ってくれたのです。

丁寧にお礼を述べて、最後にスカルパ社に向かいました。スカルパも好意的に対応してくれ、代理店権の継続を承知してくれました。結果的に取引停止の事態は1社だけで済むことができたのです。 私達に非情な決断を通告したトウア社が、その数年後に倒産したのもなにか因縁めいた感じがします。

 

ピーターは最初の1社目で、自社が危機的状況であったことを把握できたようです。

ミュンヘンに戻った時「いやぁありがとう、助かった。」と心からほっとしたようでした。飛行場に向かう彼と「じゃあまたベンチュラで」とミュンヘン中央駅で別れたのは夜の7時。なぜか暗くほとんど人のいないミュンヘン中心街。町中のレストランやバーはすべて閉まっていました。唯一開いていたのはマクドナルド。そこで人生2度目のマックを食べましたが「今日は24日クリスマス・イヴですよ。全員家に帰っています。他に開いている店などありませんよ」と言われて驚きました。

 

今年、シュイナード・イクイップメント時代からの仲間、ピーター、ラス・クルーン、キム・ミラーの3人とニューヨーク州のガンクスの岩場で一緒に登る機会がありました。

夜話題になったのは、BD誕生時の数々のハプニング。とりわけ最初の1月のORショーは、ホテルの一室に私、ピーター、マラヤの3人の取締役を含めて男女9人が一緒に泊まるという緊縮財政ぶり。そして、イヴのミュンヘン中央駅のマックにも皆大笑いでした。

第4章:ロストアローとアウトドア・ブランドたちとの出会い

Boreal(ボリエール)

1983年8月、シュイナード・イクイップメントの営業課長(1981年当時)でパタゴニアの営業に転身したリック・ハッチと会います。彼はフィーレというクライミングシューズを見せてくれました。フリクションが素晴らしく、ヨセミテのクライマーがみんな履き始めたというのです。リックと一緒に、旧知のマイク・グラハム(グラミチの創業者であり、ポータレッジの製作者)を訪問し、彼がジョン・バーカーと一緒にボリエールの米国最初の代理店になったいきさつや、その驚異的なフリクションや普及スピードの速さも含めて、フィーレについての様々な情報をもらいました。早速、スペインに2回連絡を取りましたが、返事がありません。当時イギリスのフィーレの輸入元だったワイルド・カントリーの創業社長、マーク・ヴァランス(フレンズの製造・販売に成功)に電話し、ボリエール社の社長への推薦を頼みました。彼とは、スタネジの岩場やスコットランドの氷壁を一緒に登っており、親しかったのです。

英米両国の友人の推挙が功を奏したのか、1983年の秋に最初のフィーレが送られてきました。聞きしに勝る驚くべき粘着力でした。それ以来、ボリエール社は世界のクライミングシューズ市場を十数年にわたってリードする黄金時代を築きます。

1984年夏、私はスペインの地中海沿岸のアリカンテから少し内陸に入ったボリエールの本社・工場を訪問しました。社長はヘシウス・ガルシア。私より1歳年上の小柄な人でしたが、聡明でエネルギッシュで誠実、尊敬に値する人物でした。その最初の訪問以来、私達は40年近い友情を結ぶことになります。この間、彼はEU諸国の中で国際的に活躍する最優秀中小企業に選出されたり、スペイン国王から2度も表彰の栄に浴する実業家になります。しかし70歳頃に大腸がんに倒れ、手術後はベッドから起きられず徐々に認知症が進み、面会謝絶状態でした。亡くなる数か月前に家族の同意を得て病室で面会しました。 手を握り1時間ほど私から一方的に話しかけるうち、私の声を記憶しているのか時々顔を紅潮させ、笑顔を見せ、血が出るほど強く爪を立てて手を何回か握り返してくれました。奥さんのマリアや2人の息子の話では、「ナオエだと分かっているようだ、こんな意思表示はここしばらくなかった」とのことでした。

往年のヘシウスは、リン・ヒル。ジョン・バーカー。ウオルフガング・ギューリッヒ。平山裕示。など、1980年代、90年代、2000年代のクライミング界のレジェンド達と次世代のクライミングシューズについて、熱い議論を交わしてきました。長男ヘシウス・ジュニアの誕生日1975年に会社を創業し、来年で50年になります。 ヘシウスの自慢だった、故郷アルマンサの赤ワインを一緒に飲む機会は失われましたが、来年は優秀な後継者である、長男のヘシウスジュニアや次男のホルヘと、亡きヘシウスの思い出を語り合えればと思います。登山用具の代理店の役得の一つに、仕事を通じて世界各国に真の友人ができ、長い付き合いができたことが挙げられます。

Lowe alpine(ロウ・アルパイン)

1981年、BMC(ブリティッシュ・マウンテニアリング・カウンシル)英国登山評議会の年次総会に招かれ「日本の登山について」を講演した際、有名なアメリカ人クライマー、ジェフ・ロウと一緒の部屋になりました。彼も「コロラドの氷壁登攀」の講演者として招かれ、滞在中にクライミングについて話こむうち「兄貴たちが経営するLowe Alpine Systemsという会社で仕事をしている」という話がありました。

その後3年ぶりに会った時、兄貴たちが日本の代理店を探しているようだ。 興味があるならISPO(欧州最大のスポーツ用品展示会)のブースに来てみないか」と誘われたのです。

彼らは「マイク、グレッグ、ジェフのロウ3兄弟」として知られる著名登山家でもあります。ジェフの紹介の後、会長で国際営業担当の長兄マイクが「実は日本から20社ほどの代理店希望の申し込みが来ています。あなたも参加しますか?」と聞かれたので、「YES」と答えると、「では日本市場に関してのザックのレポートを書いてくれないか?」という宿題が出されました。その当時は、ザックの知識はほとんどなかったのですが、自分なりに市場調査をし、その結果をまとめました。当時Lowe Alpineのザックは、アメリカでもドイツでもダントツの人気ブランドだったのです。

マイクに電話して「レポートはできましたが、会って直接説明したい」と頼んで、コロラド州ボルダー近郊のLowe Alpine Systemsの本社に出向いたのです。彼らはレポートを読んでくれ、いくつかの質疑応答の後、「今までで一番いいレポートだ」というお褒めの言葉をもらい「お前に決めた」と言ってくれました。そんなすぐに決めていいのかとも思ったのですが、同時に提出した私の登山経歴やジェフの推薦も、決め手になったのかもしれません。

「これからエルドラドに登りに行こう」となり、次兄のグレッグが考案したトライカムを使って一緒にクライミングをし、「来年3月に、あなたの東京の事務所で会おう」と約束して別れました。社長のグレッグは、ポータレッジやフレンズのコンセプトを考案し、フットファングやチュブラーピックを登山界に送り出した有名な発明家でもあります。

 

その後マイクは3月に来日し、20坪の元ビリヤード場だった事務所に来て、さすがに驚いたようで「本当にここで、一人でやっているのか?」と聞いてきましたが、「そうだよ」と答えると、マイクはどのように納得したのか「もう決めたからいいよ」と一言。そして「ところでいつから発売する予定?」と聞かれました。

私は「来月からチョラツエ、タウチェ、アマダブラム、チュオユーの4峰を登りに行くから、4月5月は休むけれど、6月から始めます。頑張ります」と答えると、改めて驚いておりました。10年後、事務所・倉庫は550坪の広さになります。

一方グレッグとマイクは、ボルダーの古本屋でインデイアンの残した謎の古地図を見つけ、古い金鉱跡地探しに夢中になり、あれほど隆盛極めたロウ・アルパイン・システムズを英国の会社に売却してしまいます。その売却資金で重機を大量に購入し、数年間の悪戦苦闘の後、金鉱は発見できず、倒産したと聞きました。

クライミング界で縦横無尽の活躍を見せたジェフも、晩年は全身の筋肉が次第に委縮する奇病を患い歩行困難で車椅子生活になり、話すことも難しくなっていきます。二度、ユタ州オグデン市のジェフ宅を、マイケル・ケネデイ、ジム・ドニニ、ジョージ・ロウ達友人と見舞いに伺いましたが、彼も数年前に亡くなりました。 マイク・グレッグそしてジェフのロウ三兄弟の人生の起伏は実にダイナミックでした。

Osprey(オスプレー)

オスプレーとの出会いは1988年のORショー(Outdoor Retailer アウトドア・リテイラー、北米地域最大のアウトドア展示会)。当時の開催地はネバダ州のリノでした。

小さなブースに二人だけ、創業者のマイク・プフォテンハウアーとアシスタントの女性がいました。ブースに並ぶザックを見た瞬間、フォルムが美しく存在感が際立っておりました。「これはいい」と感じて、そこからマイクと話し始めたのを覚えています。 

2日目になってもマイクのデザインについての話とザックが気になったので、もう一度オスプレーのブースを訪ねたのです。どんな話の経緯だったか忘れましたが「ちょっと相談に乗ってくれないか」とマイクに言われました。「実は会社を売ろうと思っているのだが、あなたの意見を聞きたい」というものでした。 相談内容に驚きましたが、「こんな素晴らしい製品を作っているのになぜ?」と私が訊くと、彼は「ザックをデザインするのは楽しいが会社経営は大変で、できればデザインに集中したい」ということでした。

「会社を売った方が、デザインに集中できる」という考えに、私は「それは多分違うと思う。もし私が会社を買ったとしたら、あなたのデザインを受け入れる時もあるが、こういうのを作ってくれ、いや、こうじゃないとダメだよ、ということを主張し、最終的にはあなたが作りたいザックを作れなくなるかもしれない。 会社を買う人は、もっと収益を上げようと思う人が多い。だからやめた方がいい」と言ったのです。すると彼は「なるほど」といって、そこからオスプレーをやり続けることにしたようです。

実は、彼からの会社売却の相談はその後も数回ありました。2回目のオファーは何と私がよく知っている会社からでした。「デザイナーの地位は保証するというし、いいオファーなので受けようかと思うのだけど、どう思う?」それに対しても私は、「これは友人として言うけど、やめた方がいいと思う。理由は十数年前に話したこととまったく一緒で、あなたが考えるザックとこの会社の方向性とは少し違う。だからきっと前に言ったのと同じ結果になると思う」。彼はそれを聞いて考え直したのか、オスプレーを続けることを選択しました。

3度目は有名なアウトドアメーカーからのオファーでしたが、偶然にもその会社が突然別の大きな会社に買収されることになって、その買収は立ち消えになりました。結局50年近く独立を保って会社を維持することで、マイクやダイアンの思想、感覚が社内にも浸透し、フラットな組織、オスプレーイズムができたのは非常によかったと思います。マイクも70歳を越え2年前に会社を売却しました。昨年コロラドの彼の家に2日間滞在し、今後の人生についてダイアンも交えて色々話す機会を得ました。

 

二人はアメリカ原住民のナバホ族の居留地近くにある、住人600程度の小さな町、ドロワースに住んでいます。工場を拡大するため、カリフォルニアの高級住宅地のサンタ・クルーズからコロラド州南西部の僻地・ドロワースにあったゴアの宇宙服製造工場を買取り1990年に小学生二人の子供と一緒に移住します。 翌年私も工場を訪問して驚きましたが、古い西部劇に出てくるような村で、バーが一軒、ホテルが一軒、ドラッグストアが一軒、床屋が一軒。それが中心街です。バーの扉を開けると客は3人。 全員、拍車を付けたブーツを履いた渋いカウボーイたちで、100年以上タイムスリップした感覚でした。

「マイクもダイアンも実に度胸がいいな」と感心したのを覚えています。

10数年後には、やはり家族全員でベトナム戦争の地ホーチミン市に移住し、4年の滞在で、ベトナム人主体のデザイン工場、品質管理、材料購買など30数人の現地チームを組織しましたが、マイクとダイアンの現地に飛び込む決断、冒険心、情熱、そして現地の人達に溶け込む人柄、そのスピードには感心します。

ナバホ族の話に戻りますが、オスプレーパックを生産するために安い土地と広い工場が必要だったのですが、そこで手先が器用なナバホの人達を雇用することになります。彼らは全員ナバホ居留地に住んでいますが、ほとんどの居留地は不毛の地。水のない、白人が捨て去った土地や使えない土地を居留地として与え強制移住させました。

野菜とか作物を作りたくても水がない。土壌も痩せている。だから、そこに何か植えたとしても育たないのです。 だからそんな彼らをサポートするために、マイクはオスプレイを売却した資金を使って居留地に大規模なクリーク(小川)を掘り灌漑用水路を確保し、作物の品種改良を始めたというのです。将来食糧危機に遭遇し、彼らが食料を手に入れられない時のために、自分たちで耕作できるベースを作る活動をしているのです。

イヴォンもそうだし、ダグ・トンプキンス(ノースフェイス創業者)もそうですが、アメリカのクライマーやアウトドア業界の人たちは、ヒッピー思想なのか、プロテスタントの倫理観なのか分かりませんが、社会に貢献しようとする精神が流れています。 

彼らは確かに会社経営やブランド確立に成功しますが、その成功で獲得したお金を、社会に役立ついろいろなものに還元しようという強い意思があるような気がします。私は彼らのような成功者ではありませんが、その精神はぜひ見習いたいと思います。彼らと交流していろいろな刺激を受けているわけですから。

どんなブランドも、最終的には「人」。

ロストアローにとって、そのブランドと付き合っていくことを決める、最終的な決め手は何なのだろうか。最後に聞いてみた。

「若いときは、その商品の持つ存在感、美しさを基準にしておりましたが、今は人ですね。

製品の魅力というのは当然ありますが、もっと大切なのは会社の創業者や経営者の思想です。創業者がどのような考え方、どういった思想で物を作り始めたのか。それがきちんと商品に反映されているかどうか。そこに明確な筋が通っていなければ、そのブランドは長く続かないと思います。 多分メーカー側も代理店に対して求めるものがあり、お互いに呼応し刺激し合い、相互に敬意や友情が生まれないと長くは続かないでしょう。

当然、短期間に経済や利益を優先する人も多いですが、長く続く関係は、最終的には考え方が一致し、大袈裟に言えば生き方、人生観が一致する相手を選別することになりますね。」

終わりに

たとえ今ではメジャーなブランドも、そのルーツは自然に魅せられた人々の無垢な情熱であり、アウトドア文化はそれらに共感した人間同士の深い繋がりによって紡がれてきました。この決してビジネスありきだけでは片づけられない”純粋さ”は、アウトドアという、産業であり文化である営みのおもしろさであり尊さだと思っていましたが、これまで3回にわたりロストアローの誕生とそれを取り巻くさまざまなブランドとの出会いについて代表自らの言葉を聞くことで、その思いは強く確信に変わりました。

これからもOutdoor Gearzineでは、深いリスペクトと強い愛をもってこの豊かなカルチャーを支えていこうとする人々に注目していきたいと思いますので、どうかご期待ください。

坂下 直枝 プロフィール

1947年2月6日、青森県八戸市生まれ。70年、山学同志会に入会。76年ジャヌー北壁初登攀。80年カンチェンジュンガ北壁初登攀。82年K2北稜初登攀。85年アマダブラム西壁初登攀。1979年、イヴォン・シュイナード著「クライミング・アイス」の翻訳。81年にシュイナード氏の誘いを受け渡米し、著名なクライマーたちと交友を結ぶ。82年冬、シュイナード・ジャパンを設立。 84年9月株式会社ロストアローを設立し現在まで代表取締役。