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イヴォン・シュイナードとの出会いからロストアロー創業へ。初めて明かされるロストアロー誕生秘話を代表の坂下直枝さんに聞く(中編)

ロストアロー特集【前編】では、日本でも有数の登山用具輸入代理店であるロストアローの仕掛けた新しい試みについて取り上げてきました。

今回の【中編】では、自分をはじめロストアローをまだよく知らないという方々のために、そもそもこの唯一無二のディストリビューターはいかにして生まれ、ここまで歩んできたのか?これまであまり詳しく語られてこなかったロストアローの誕生にまつわる話を坂下さんの生の言葉で紹介していきたいと思います。

そこには一期一会の縁が紡いだ、ある意味奇跡としか思えないような物語が眠っていました。

第1章:イヴォン・シュイナードとの出会いとシュイナード・ジャパンの誕生

「ロストアロー」の前に「シュイナード・ジャパン」という名前の会社がありました。

1978年でしたが、クライミング雑誌『岩と雪』の編集長の池田常道さんから、「イヴォン・シュイナード著(※1)の『Climbing Ice』が出版されたが、素晴らしい本なので翻訳してみませんか」と言われたのです。
素人の私にいきなり本一冊翻訳させるわけですから、池田さんも相当度量の広い方です。

※1 イヴォン・シュイナード・・・アメリカのクライマー・登山家、パタゴニアの創業者。

その翻訳本は1979年に山と渓谷社から出版されましたが、ちょうどその時期に、シュイナードさんやリック・リッジウェイさん(※2)など有名な登山家達が「ミニヤコンカ」という中国にある7500m峰への遠征途中、日本に立ち寄る機会がありました。彼らを招いた大倉スポーツ主催のスライドショーがあり、偶然私が通訳を依頼されたのです。
当日は池田編集長も同席され、その場でシュイナードさんを紹介いただきました。

※2 リック・リッジウェイ・・・パタゴニア環境担当副社長。登山家、サーファー、作家、映画監督。78年にアメリカ人で初の無酸素K2登頂。

その時彼は「アメリカへ来いよ、一緒に登ろう」といってくれました。「今年ワイオミングに別荘を建築中だから、そこへ来てくれれば1か月でも2ヶ月でもいていいよ」と。

2年後、冬季アンナプルナI峰単独登攀に失敗後に「ヨセミテに行く前にぜひワイオミングで一緒に登りたい」旨の手紙を書いたのですが、1カ月たってもなぜか返事がありません。まあ彼が「来ていいよ」と言ってくれたのだから、返事はないが行くだけ行ってみようと決め、クライミングギア一式を入れた大きなザックを担いで飛行機に乗りました。

彼の住所、ムースにクライマーが集まるバーが1軒あって、そこの公衆電話から電話をすると運よく彼が出ました。「やあナオエ、どこから電話している。東京か?」と彼がいうので「アメリカだよ」と言ったら、「ロサンゼルスか?」と。私「いや、ワイオミングだ」。イヴォン「え?ワイオミングのどこだ?」。私「ムースだ」(ムースはグランド・ティトン国立公園のすぐ近くにある人口500人くらいの小さな村)。イヴォン「何?ムースのどこだ?」。私「広いバーにいる」。イヴォン「ああ分かった。じゃあこれから迎えに行くよ」

そんな感じのやり取りで、彼が車で迎えに来てくれることになったのです。

別荘へ向かう途中郵便局に立ち寄り、一緒に来いというので中に入り、彼の私書箱をみると郵便物が200通ぐらい溜まっていました。1ヵ月以上、郵便物を引き取っていなかったらしいのです。二人で私書箱から車の助手席まで運んだ手紙の束を探してみると私の手紙が出てきました。「これが日本から出した私の手紙ですが」と彼に渡すと、彼は家に着いて封を開けてその手紙を読んでからひと言「ああ、いいよ」と。

それから私はなんと1ヵ月間、彼の家に居候し二人でグランド・テイトンやマウント・モランなど、テイトン周辺の岩壁や岩場をあちこち登り、そして彼の氷壁技術講習会の助手として生徒に教えたりしました。4歳のクレア、7歳のフレッチャーの二人の子供達とも、アメリカインデイアンのお祭りの真似事をしたりして一緒に遊びました。イヴォンはともかく、幼い子供二人を抱えた奥さんのマリンダが、突然の異邦人の長期滞在をよく我慢してくれたと思います。その後、私はヨセミテに行く予定でしたが、お金がほとんど無くて。そもそも初めから500ドルぐらいしか持ってきておらず、しかもそのうち300ドルはすでに使ってしまったので、もう残りは200ドルしかなかったのです。
どうしようか考えて、イヴォンに「シュイナード・イクイップメント(登攀用具製造会社)」で働かせてくれないか?」と頼んだところ、「いいよ。友人のリック・リッジウェイのところへ行けば、一人住まいだから部屋ぐらいは貸してくれるだろう」と言ってくれました。

こうして私はワイオミングから、かつて勤めた会社の上司の住むサンフランシスコ郊外のパルアルトに移動しました。その移動は、クライマーの溜まり場の掲示版で見つけた「同乗者求む」の書き込みで、ボストンから西海岸のスタンダード・オイル・カンパニーに就職する学生クライマーのポンコツ車に、交渉して50ドルで同乗させてもらいました。
マサチューセッツ工科大学を飛び級・3年で卒業した極めて優秀な学生との珍道中でした。さらにグレイハウンドバスでサンノゼからベンチュラまで行き、ほぼ無銭状態でリック・リッジウェイの家へ転がり込んだのでした。そして約1ヶ月半、シュイナード・イクイップメントで働きました。最初はカリフォルニア州の当時の最低賃金、時給2ドル40セント。
1週目はストッパー用のワイヤーのカット、ピッケルやハンマーのヘッドの取付作業などの工場の下働き、2週目に英語が読めることがわかり出荷担当に昇格。時給4ドル。
3週目にイヴォンがワイオミングから戻り、カタログの日本語翻訳を頼まれ時給10ドルに。
それから1カ月、貯金も少しできたので、ヨセミテへの準備を始めた頃、突然東京から電話がありました。「K2遠征隊(※3)の隊員選考リストに入った。すぐ日本に帰国できるなら偵察隊隊員として決定するが、どうしますか?」というものでした。ヨセミテ行きを中止し、3日後に帰国。その4日後には偵察隊の一員として北京へ出発しました。
結局リックにも部屋代は全く払っておらず、いつか恩義を返す必要があります。

※3 K2遠征・・・1982年8月14日、日本山岳協会チョゴリ登山隊(隊長・新貝勲)によるK2北稜の初登攀。坂下直枝、柳沢幸弘、吉野寛が中国側からの登頂に初めて成功した。

K2に登頂して下山後、シュイナードさんへ「シュイナード社製のアイスアックスとバイルを使って頂上に到達できた。非常にラッキーだった」といった内容の葉書を送りました。(この葉書は、翌年1983年のシュイナード社のカタログの裏表紙を飾りました)。すると彼から「また遊びに来いよ」という連絡があり、カリフォルニアのベンチュラへ飛びました。

そこではK2のことなど土産話に花を咲かせていたのですが、そんななか、彼から「日本でシュイナード・イクイップメントの代理店をやらないか?」という申し出がありました。
大変ありがたい話ではあったのですが、翌年にはエベレスト南西壁、翌々年にマカルー西稜に行くつもりでしたので、理由を話しお断りしました。
その数日後、帰国する日になってイヴォンが「一緒に朝飯食いに行かないか?」と誘ってくれて、その席で「もう一回、代理店のことについて考えてみないか?」という言葉をもらったのです。「こういうチャンスって、そんなにたくさんはないよ」と。
一度目は断ったものの、「三顧の礼」の故事ではありませんが、敬愛する人から二回も声をかけて頂いたので、これは断るわけにはいかないと思い直し「分かりました、やります」と答えました。引き受けるとは言ったものの、事業のやり方も分からないし、経済的な余裕もありません。私「具体的にはどういうことをやればいいのか?」。イヴォン「こうこうこうすればいいんだ」。私「悪いけど金が無い」。イヴォン「金が無いって、貯金は何ドルくらいあるのか?」。私「貯金は500ドルしか無い」。
イヴォン「こっちのことは全部私が手配するから心配しなくていい。東京でのことは自分で何とかしてくれ」。私「わかりました」。

帰国途中の飛行機の中で、参加予定の翌年秋のエベレスト南西壁遠征について考え、もし私の主張する「隊員二人でのアルパインスタイルでの南西壁」の意見が通らず、「ロープを壁に張り巡らせて全員がユマールで登る、従来のスタイル」になるのであれば、「エベレストには不参加」と決めました。

帰国後は、早速シュイナード・ジャパンの代理店業務を開始することになります。
まず弟に「100万円貸してくれないか?」という電話をすると「また山に行くのか?」と言うので、「今度こういうわけで仕事を始めることになった」と説明し、起業のための資金は弟からの借金で調達できました。

その当時はまだファックスも普及しておらず、海外とのコミュニケーションには国際電電の「テレックス」が必要でした。テレックス使用には30万円の権利金と、毎月3万円の基本使用料が必要で、それだけでもう資本金の3割がなくなってしまいます。さらに事務所は自分の住む古い木造アパートに電話とテレックスを設置し、押入と隣のビリヤード場の台の下を倉庫代わりに使わせてもらい、一人で事業を開始しました。

当時のアパートの家賃が4万円、それと電話、テレックス代5万円、私の月給15万円などを合わせて30万ぐらいが1カ月の支出、年間360万円のランニングコストでした。
電話で注文が来たら登山用具店に配達しなくてはなりませんが、あるのは古い自転車だけ。そこで配達はザックに商品を詰め込んで自転車で届けることにしました。私は早稲田に住んでおり都内の登山用具店にはほぼ30分以内の距離。注文を受けてから15~30分後には届けることができたのです。
ただ配達中は、受話器を外して話し中にしていました。戻ってきたら受話器を元に戻す。
以来、2年間はこのスタイルを続けました。

この自転車配達システムは我ながら革新的だったなと思います。
その当時、輸入代理店と小売店との間には商社と問屋が介在していました。
海外メーカーとの交渉、LC(信用状)発行といった銀行経由の輸出入業務は、ふつう商社にお願いしますが、一人の会社ですがテレックスがあり、取引先はシュイナード・イクイップメントですから、信用問題もないわけです。商社も問屋も必要ありませんでした。
それまで常識だった中間業者を全部省いたのと、安いランニングコストで販売価格は従来の半額になりました。

イヴォンの特別の配慮で、支払いは無期限、ある時払いの催促なしでした。
最初の商品発送から200日目で支払いし、2回目は150日後、3回目は100日後と支払日を短縮できるようになって次第に事業は軌道に乗っていきました。「1年目で2000万円の売上があれば食えるだろう」とイヴォンには言われましたが、2年目には1億円の売上になりました。

思えばイヴォンが誘ってくれなければ現在の私はないし、岩と雪編集長の池田さんからの翻訳の仕事の提供がなければイヴォンとも知り合うことはなかったし、山学同志会に入っていなければ池田さんと知り合う事もなかっただろうし、遡れば3月の鳳凰三山に誘ってくれた大学時代の友人、猿山がいなければ登山とは無縁の人生であったかもしれない。
時々、もし彼らが私の前に現れなかったとしたら、私は今ごろ何をしているのだろうと思うことがありますね。実に不思議で有り難い巡り合わせであると感謝しいています。

第2章:アマ・ダブラムでの出会いとロストアローの誕生

事業をはじめて1年後、グラミチ創業者のマイク・グラハム、ワイルドカントリー創業者のマーク・ヴァランスなど英米のクライマーの勧めもあって「フィーレ」クライミングシューズの「ボリエール社」の代理店になり、シュイナードロープ製造元の「ベアール社」からも頼まれて代理店となります。ある日、仲の良かったシュイナード社の副社長クリス・マクディビッド(※4)から「シュイナード・ジャパンなのにボリエールとベアールの代理店というのはおかしい。何か別の名前を考えてくれない?」という筋の通った依頼があり、社名を変える必要が生まれました。

※4 クリス・マクディビッド・・・パタゴニア社の元CEO。後にノースフェイスの創業者ダグラス・トンプキンスと結婚し、ダグと共に私財を投じて南米チリ・アルゼンチンにまたがる広大な環境保護地区を新たに創出。ダグ亡き後も彼の遺志を受け継ぎ、精力的に自然保護活動を続けている。

同じころ、仕事を始めて1年やってみたら「この仕事であれば、工夫次第で海外の山にも行けそうだな」と思うようになりました。それで1984年春、すべての取引先に「4~5月の2ヵ月休みます。注文ある方は3月31日までに注文をください。次のデリバリーは6月になりますから、その間2ヵ月は出荷できませんので、よろしくお願いします」と連絡し、アメリカの著名な登山家ジョン・ロスケリー(※5)とジム・ブリッドウェル(※6)と3人でネパールヒマラヤ、タウチェ東壁に向かいました。

※5 ジョン・ロスケリー・・・アメリカの登山家、作家。1978年リック・リッジウェイらとアメリカ人初の無酸素K2登頂を果たすなどアメリカを代表するヒマラヤニスト。2014年ピオレドール生涯功労賞受賞。

※6 ジム・ブリッドウェル・・・70~80年代のアメリカを代表するロッククライマー、登山家。60年代からヨセミテ渓谷で活動し、エルキャピタンやハーフドームなどでの新ルート開拓など、エイドクライミングを新たなレベルに押し上げたことでも知られる。

しかし遠征途中、「落石が多く岩壁の状態が悪い」との理由で彼ら二人は登山を断念し帰国します。私はこのようなケースも想像していたので、事前に「アマ・ダブラム」の登山許可を取得しており、彼らの帰国後一人でアマ・ダブラム向かいました。

アマ・ダブラム南東稜の単独登山に成功しベースキャンプに近づいた時、下方に3つの人影が見えて「はて、彼らはどこから来たのかな?」と近づいてみると、その3人とはなんとクリス・マクディビッドとその夫で著名なクライマーのデニス・へネック。そして当時のパタゴニアのチーフデザイナーだったキャシー・ララメンディだったのです。
たまたま3人はクンブ地方のトレッキング旅行中で、偶然にも下山してきた私とアマ・ダブラムのベースキャンプで鉢合わせしたことになります。

「ナオエ、こんなところで一人で何しているの」とクリス。後方の山をピッケルの先で指して「この山を登って降りてきたところだよ」私。「え?一人なの」クリス。「ああそうだよ」私。グレイト・トランゴやウリ・ビアフォを初登攀している凄腕のデニスは別に驚かないが、クリスとキャシーは私の単独登攀に驚いていました。

こんな場所で偶然会うとは不思議なものだと話すうち、クリスが「ところでナオエ、新しい会社の名前決めたの?」と、聞かれたので「ああ、決めたよ。『ロストアロー』と言う名前だ」と答えました。すると「すごくいい名前だね!」と言われ、その場で会社の新しい名前が決まってしまいました。

「ロストアロー」という名前はヒマラヤに行く前からアイデアとしてあって、遠征中も時々考えていました。名前の理由はいくつかあって、ひとつは「Lost Arrow Spire(ロストアロー・スパイヤー。ヨセミテフォールの近くにそびえる巨大な岩峰)」という実際の地名がありますし、「ロストアロー・ピトン」というシュイナード・イクイップメントのピトンの名称でもあるからです。

それから、ロストアロー・スパイヤーの名前の由来として、アメリカ先住民に伝わる伝承があります。それは、ある日狩りの上手な若者が獣をヨセミテに追っていき矢を放ったところ、その矢が消えてしまった。矢は大事なものなので一生懸命探したが発見できず。それが時を経て「ロストアロー・スパイヤー」という岩峰になったという話。
あるいは、矢で射抜いた手負いの鹿を追っている最中に墜落・骨折して岩壁から降りられなくなったボーイフレンドを、勇敢な酋長の娘が岩壁を登り、自分の髪を全部切ってそれを繋いでロープにして助けたという説。真偽はともかく、なかなかロマンティックな伝説だなと思っていました。社名として我ながらいい名前だと思います。

ただアメリカのクライマー達にはとても好評だった「ロストアロー」ですが、最初の名刺を渡した日本の銀行の支店長からは「非常に縁起の悪い名前ですね、来年にも潰れそうじゃないですか」と言われ、なるほどそのような連想をする人もいるのだと感心しました。
幸いなことに、まだ潰れてはおりませんが。

――後編へ続く――

ロストアローの製品は2024年8月まで、値下げ価格で購入することができる。これを逃す手はないので、この記事で知ったという方はぜひともオンラインショップや、地元のアウトドア専門店をチェックしてほしい。

坂下 直枝 プロフィール

1947年2月6日、青森県八戸市生まれ。70年、山学同志会に入会。76年ジャヌー北壁初登攀。82年K2北稜初登攀。1979年、イヴォン・シュイナード著「クライミング・アイス」の翻訳。81年にイヴォン・シュイナード氏の誘いを受け渡米し、著名なクライマーたちと交友を結ぶ。82年冬、シュイナード氏の勧めにより、シュイナード・ジャパンを設立。84年、株式会社ロストアローを設立し、現在まで代表取締役。89年、米国ブラックダイヤモンド社の創設に参画、社外取締役に選任され2008年まで20年間ボードメンバー。